本文へスキップ

電話でのご予約・お問い合わせはTEL.011-736-3388

Logos 今月の言葉

                         


2020年2、3月

 いかがお過ごしでしょうか。

 今回のコロナウイルスは世界的な広がりになりました。
イタリアでは、比較的経済的な活発な地方、そしてオーストリアやフランスの影響の強い、文化的・経済的にも高いレベルところで苛烈な状況を生み出しています。 
感染症の蔓延は、多くの、しかも急速な罹患状況の悪化をともない、医療チームは、罹患者に対して、あたかも戦場のような、生死に直結する熾烈な選択を迫られているようです。そこでは罹患者の病状を段階的に仕分けして、治療を施す人たちと、治癒の見込みが著しく困難な人たちとを峻別して、現場の医療活動を展開していると聞きます。
すでに患者をまんべんなく治療を施すという段階を越えた現状のようです。この施策は、この苛烈な現実に直面して、医療団体の責任者は、医療に献身的に従事する医療チームに、患者の生死に個人としての良心的な責任を負わせることをしないようにする施策決定でしょう。
 
 そこで、イタリアでは、この方針の下で現況では治癒の見込みのない人たちに対してはカトリックの国と人たちですから、司祭たちが患者に対して司牧(プロテスタントでは「牧会的配慮」)にふさわしい病者の塗油(かつては終油の秘跡といいました)を施しています。医療従事者は、治癒cureする見込みのない人に対して司祭がcareすることを委ねています。命の新しい段階、死する人にたいする懸命な宗教的な行為をするのです。きわめて大事な対処の方法です。病者ご自身にその孤独の中で罪の赦しと永遠の命が約束されます。それがなされなければ、卑俗に表現では「死んでも死にきれない。」のです。

 その際に実施される宗教的活動によって、司祭自身が(そして司祭ご自身が得てしてご高齢である場合が多い)罹患してすでに67名の方がたが死亡しているということです。
司祭の方がたが、感染症であることを承知していても生と死のただなかにある人に寄り添い、懸命に出来るかぎりのことをしているのです。こうして死に向かう人が満たされた心を抱いている。
 村には、死者を出さない家はない。司祭が、近親者の死とともにいる人びとが共に寄り添っている、痛々しい、しかし神々しい姿を示しています。
 いま、大きく見ると、ヨーロッパ各国は、ヨーロッパ連合としての一体感よりも、自分の国の人々を守るために、いままでの国境を開放して、人、ものを流通する方策ではなく反対に、国境閉鎖に踏み切っています。

 ヨーロッパ連合とはなんであったか、たかだか半世紀の蜃気楼のように感じられ始めています。(しかし3月末の時点では、フランスの重篤の罹患者がドイツのシュッツガルトなどに転送され始めているとの報道があります。)

このような現象は、戦後のヨーロッパの理想に対して「一時停止」の処遇をしているようです。

さて、このような苦境のなかで、発信源はどこだという、悪者探しが始まっている面が報道されていますが、苦難そのものに真剣に対峙することが大切です。

わたしどもは、歴史の中で、しばしば苦難と困窮の中に立たされることがあります。そのような時こそ新たな知恵と展望を洞察してきました。その証を聖書が書き残した経験をみてみましょう。

ペトロ第1の手紙を思い起こします。

ペトロというイエスさまの一番弟子と言われた人物の名を借りた「手紙」となっていますが、小アジアの各地に生まれ始めた、まだ小さな集団、諸教会に宛てられた回状です。キリストを主と信じる人々が、ユダヤ教の集団から独立し始めた時期、安息日の朝に、集った人々に使徒の言葉として読み上げられたのでしょう。どんな思いで聞いたでしょうか。

ポントス、ガラテア、カパドキア、アジア、そしてビテニアは、ローマ帝国での辺境の地、異邦人と聖書でいう人々が生活を営む土地、やや不安定です。信徒になったばかりの人たちも異邦人、不安を抱えていますし、奴隷の人々が目立つ土地柄です。その人たちは既存の社会秩序に守られていません。そのために一層何とか自立したい人々です。キリスト教によりどころを求めています。
 つどう人々は、そこで朗読される「使徒ペトロ」の力に満ちた言葉を待ち受けていたのです。ガリラヤの漁師だった方ペトロが、十字架にかかったイエスさまのことを語り聞かせるのです。首を上げて聞き入るさまが目に浮かびます。
 離散して仮住まいをしている、選ばれた人たち、その人たちが自立しようとしたわが志に先立って父なる神によって「選ばれている」と2回も語られています(1節、2節)!しかも「神があらかじめ立てたご計画に基づいている」。なんと生き生きとしたメッセージでしょうか。
 ここに困難な生きかたしかできない人々、そのような人々が生きているところを探り出して、励ましの回状を送る伝道者がお働きになっている。困難な生き方をしている人たちは、あちこちにいる、決して孤独ではないことを体験します。励まされます。
 このような心持にいる人たちに、神は、洗礼を受けて「新たに生まれ」「いきいきとした希望」を与えている。「希望」というものは一時しのぎではこまります。ずっと人生の先々を照らすようなものでないといけません。「生き生きとした」とはなんと心躍るような、自分の人生の将来が広がっていくような喜びでしょうか。この喜びは現在生かされている生き方を満たすもので、なにものによっても替え難い。

これらこそが「天には、朽ちず、汚れず、しぼまない資産」の約束です。

 だからこそ「今しばらく数多くの試練に悩む」(現実です)けれども、それこそがあなたがたの信仰の資産になるのです。伝道者は、あれこれの試練の具体相をいま語らない。なぜなら具体的な話に終始すべきではないからなのです。むしろ試練そのものと受け止めて、その指し示すこと、終末の時の「称賛と栄光と誉れ」とをもたらすのです。

谷川俊太郎(詩人)がこんなことを言っています。

絶望からしか

本当の現実は見えない

本当の希望は生まれない

君はいま出発点に立っている

「平成」の時代にはなかった、新しい出発点が目の前にあります。さあ、一歩!

                                      雨貝行麿