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Logos 今月の言葉


2017年 5月 館長からのメッセージ
  

 5月に東京・国立新美術館(六本木)にアルフォンス・ムハ(ミシャ)(18601939 の『スラヴ叙事詩』展をみました。圧倒的でした。スラヴ民族の歴史をおおよそ6m×8mほどのキャンバスに描いた作品群は博物館展示室の天井にまで届く広さです。
わたしは学生時代、1960年代「プラハの春」の時に在日チェコスロヴァキア大使館が発刊した200ページほどの『チェコスロヴァキア史』を大使館に申し込んで入手しました。英語でした。JFussの教会改革に関心をもっていたからです。かつてはハプスブルクの支配のもとで自己主張はハンガリーから後れを取る。1938年の中欧でのいわゆる「ズデーデン危機」でドイツ(当時はナチス)、フランス、イタリアそしてイギリスの指導者たちがチェコのズデーデン地方帰趨を、チェコを除いて決定するという暴挙の処遇がいかにして可能であったか、チェコ人たちは1919年歴史上初めて独立をいたばかりなのになぜ手をこまねいていたのか。独立がマサリクというどちらかといえば哲学者のような人によるという傾向か、チェコ人たちは性格的におとなしいのか、疑問を抱いていました。チェコの歴史を知りたいと思いました。
その後東京オリンピックでチェコのベラ・チャフラフスカさんという体操界の名花と呼ばれた選手の妙技をテレヴィでみていました。1968年チェコスラヴァキアの「プラハの春」からの「正常化」の時期、彼女はその「正常化」に抵抗したために社会的に不遇な扱いをされ、やがて心を病んでいたことを知りました。また亡命したミラン・クンデラの作品が映画化され『存在の絶えられない軽さ』をみました。優れた脳外科の医師が反体制化を主張したためにビルの窓ふきの仕事を始める場面が描かれていました。
ひとびとは強い自己主張、文化的な力を持っている。しかし政治的・経済的な力が不足、体制を覆すまでの力にひろがらない。当時チェコ民族はヨーロッパのなかでまだ数百万の力しかありませんでした。
ソ連と西ヨーロッパに挟まれて、独立するためには力が足りない。マサリクは、民主主義の西ヨーロッパそして当時アメリカ大統領ウイルソンの民族自決の原則を頼りに独立しました。民主的で自由なチェコスロヴァキアです。当時にあっては女性の参政権も示されました。ムハの「スラヴ民族の賛歌」に中央右側に支援したアメリカ、フランス、イギリスの旗が描かれています。それもしかし束の間でした。わたしは1979年初めて、まだ共産主義が支配していたプラハにドイツのニュルンベルクから夜行列車で行きました。列車のコンパートメントにはチェコの親子2人と緒でしたが、母親が「どこからきたか」とたずねられ、「日本」と答えますと「これからどこへ」。「チェコスロヴァカイ」(ドイツ語)。「いいや、ちがう。」「チェスコ・スロヴェンスコ」2つの国です。こうやや誇らしく教えられました。
19世紀以来、ドボジャーク、スメタナ、そしてムハ、みなチェコ民族の矜持と自己主張を示しています。(次へ)

雨貝行麿

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