本文へスキップ

電話でのご予約・お問い合わせはTEL.011-736-3388

Logos 今月の言葉


2014年 9月 館長からのメッセージ 
 

「和解と平和ドイツの旅」その2

 ベルリンの郊外の森林地帯に別荘地がひろがっています。王侯の別荘地ポツダムに王妃チェチェリエのための避暑地にドイツ敗戦(19455月)後も破壊されず残った屋敷でいわゆる「ポツダム会談」が行われました。そこを訪ねました。このポツダムは東ドイツ時代もどちらかというと高級住宅地のようすでした。屋敷は森の中の瀟洒な建物です。大戦末期、いち早くソヴィエト軍が占領、管理していました。
 そこは、ドイツ敗戦後の再建、日本の戦後処理をめぐって、すでに始まっていた東西の熾烈な駆け引きの舞台となりました。会談はナチスと一貫して戦争遂行の責任者であったソヴィエトのスターリン、最大の戦争犠牲者と同時にナチスを壊滅させた貢献者、そしてアメリカは直前まで大統領としてヨーロッパとアジアで戦争遂行してきたルーズベルトの死後、副大統領から昇格したトルーマン、そしてイギリスのチャーチル、しかし彼もまた本国の総選挙で会議を中座する状況でありました。
 かれらが、それぞれの随員をともなって717日から82日まで,いわば缶詰になってドイツの戦後処理、解体かそれとも賠償とりたてか、さらに対日戦争の処理に関して、いわば戦後の世界秩序を議することになった場所としてはずいぶん小さな場所という感じがいたしました。
 ソ連軍の支配と管理の面影は今日その正面建物を入るとすぐに赤い星をかたどった花壇が眼に入ります。代表団が詰めていたそれぞれの部屋もそれほど大きな空間ではありません。書棚には19世紀おわりからの、戦争時代とはおもえないとりとめもない書籍が並んでいました。むしろ、東西の冷戦の萌芽の時代がありますから、盗聴装置に対してどう対処したのか、興味がありました。
 ここの20畳ほどの会議室のテーブル越しに各代表団の駆け引き、だまし合い、そして知っていても知らないふり、いわゆる外交交渉が行われていたのですね。すでに60年、その緊迫した空気はもうありませんでした。当時の担当者の多くは地上から去りました。
 会議の途中でトルーマンに原爆実験の成功のニュースが知らされてもだれにも語らず、スターリンは諜報活動によってそれを知っても、いつトルーマンが告げるか腹の探り合いが続いていました。
 スターリンの対日宣戦がいつ、どのようにしてなされるのか、アメリカも対日戦争は沖縄上陸をはたし、最終局面にきていてもまだ日本の出方をさぐっていました。しかしこのポツダム会談による対日要求は、日本政府は全く「黙殺」して原爆投下を招来させ、対日宣戦を用意して着々と極東にその兵員を移動していたソ連に、戦争終結のための方途を依頼しようと画策していました。
 日本は、世界情勢を全く知らないで戦争をしていたのです。一日戦争を継続すれば、それだけ戦死者をふやし、じり貧になっているのにその打開策をうちだせないでいたのです。
 どうしてだったのでしょう。
 そして、実はいまも、日本は世界情勢に目をひらかず、自分のいる位置に関して、じっとしていれば「平穏無事」安穏としていられると考えているのでしょうか。

                                     雨貝行麿

2013年 2012年 2011年 2010年 2009年 2008年 2007年 2006年