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Logos 今月の言葉


2016年 3月 館長からのメッセージ
  

 

 3:11 5年前の2時半過ぎ大きな揺れ・地震がありました。週末の金曜日でした。センターにも非常ベルが鳴りました。建物の点検に走ると同時に事務室ではTVをつけました。大きな地震が東北地方を襲っていました。その直後大きな黒い波が街を、ひとを襲っていました。館内の備品で救援物資になるものを探し、日曜日教会で救援に役立つものを集めました。月曜日救援の方法を携帯電話などで探りました。東北はつながりません。悪夢です。ようやく新潟がつながりました。
 東電、福島原発が爆発しました。知り合いの外国人たちに本国から帰還命令がきました。外国の報道が事態を明確にしていました。
 「パニック」を避けるとの「奇怪な配慮」で事態の報道が規制させられていたようでした。
 正確な事態の報道が、「不安」をなくし「あとあとまでの」方針に協力が得られるのです。この「パニック」を避ける、真実の方法を、日本のように突然の自然災害にきちんとしていなくてはなりません。
 初期の報道管制が敷かれ、「原発の深刻な事態」を報道陣の前で発言した職員は直ちに「排除」されています。報道の責任者もそれに乗っかってしましました。ですから最近になって東電の職員が、当時原子炉内が「メルトダウン」(燃料棒を制御することができなくなって、放射線によって高温になり燃料であるもの自身が溶けて原子炉の底を溶かしていたと考えられる)とした専門家としての「見解」を発表しました。しかし当時この事態が起こっている可能性は高いにもかかわらずそれを報道陣は指摘しない、あるいはできない。「できない」とは原子炉に対する無知か、報道管制か、おそらくりょうほうであるとすると日本人は原発をもち、それを管理する資格があるのか、が問われるのではないでしょうか。
 さてセンターではその後、数回の救援活動、支援活動を終えて、災害に見舞われた各地の人々自身の再生を見守りました。遅々として進展していないことを見つめるしかありませんでした。
 その後4年目会津放射能情報センターを切り盛りしている片岡輝美さんお招きして講演と懇談の時を持ちました。そして現地を見る、現地の人々に笑顔をみせ、励ましの言葉をかけるために「スタディ・ツアー」を企画し、実行しました。その方々がもどってから現地の写真を引き伸ばして現像しました。センターは、この311日前後2階ホール前にそれらを展示しました。「忘れない」としています。
 国は、放射線が低くなった、という言説で、避難していた人々の一部を帰還させていました。しかし4年目にそこの現地を訪れた人々は、歩行している間に、放射線測定の機器がたびたび急激に警報とする音響を出すことに身震いを感じています。
 放射線は、どこにあるか見えません。匂いをかいで感知することもできません。しかしそこここに存在しているのです。「除染」とは偽りです。「人間の一生」の期間ではなくなること、取り除かれることはありません。
 いわば「放射線管理区域」に毎時毎時、人間のいのち、とりわけ子どもたちのいのちを置いているのではないでしょうか。

 
                                     雨貝行麿

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