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Logos 今月の言葉

20139月 

いまから100年前、1913年の94日に田中正造がその生涯を閉じました。足尾銅山の公害調査の途上で、渡良瀬川流域の農家に倒れこみました。公害阻止、民生の回復と人びとの平和とを求めた70年の働きの後でした。
 明治20年代の秋、渡良瀬川が氾濫、鯰が子どもの手でつかめた、ということが「公害」の発端でした。その上流の山の緑が失われていました。井戸水を飲むと下痢をする、川魚をたべてはならない、ということが流域全体に急速に広がりだしました。
 田中は帝国議会の国会議員として調査をして直ちにわかったことがあります。銅鉱山から排出する有害物質が地域全体に広がり、そこで日常生活、生産活動をする人たちの生活と健康を著しく蝕んでいるということでした。日本の近代史のなかで初めての公害でした。
 彼は国民の生活を守るのが国会の役割であると認識して、国会で事実を指摘し、これを解決するのが国会の役割と訴えました。しかし、行政機関もむしろ、鉱山を経営する企業と結託していました。国会での議論に限界をみて、直接国民に訴える事にしました。明治人として当時の天皇に敬愛をよせていましたので天皇こそその国民を守ることをするので直接天皇に訴えることとしまし、それを実行しました。世間は公害よりもその直接行動に注目しました。
 この行動に感動した青年黒沢酉蔵が田中に面談します。17歳の黒沢青年に対して田中は居ずまいを正して、その信念を語り聞かせました。黒澤青年は田中の活動を応援するひとりになりました。田中の知人島田三郎は訪ねて「田中君、きみの言うことももっともだが、しかし軍艦もつくらなければならい。」との激論を聞いて、黒沢は田中のいうように農村を破壊し、農地を荒廃させては国家100年計を誤るとの認識をえました。
 企業の利益追求、企業と国家の癒着、その結果としての民生の破壊、営々として築き上げてきた農民たちの平和で安定した生活を根本から破壊し、農地を再生不能にする。この事態に田中は怒りを覚えますが、第1にはこの事態のもとで呻吟する人びとの生活を守ることへの方向をとります。多くのキリスト教徒たちが田中の活動を物心両面で支援し始めます。食べ物をもたらせ、衣類を届け、問安をする。彼らは数は少ないが時にへつらわず、方便もせず、誠心誠意、支援する。狭い道ではあるがその狭い小さなことに神の視線があることを示している。
 田中は農民たちが自分の土地を奪われながらも仮小屋を建てて細々と生活するさまをつぶさに見る。懸命に、正直に生きようとして苦難に会っている。悪しき所、汚れているところ、そこで苦しむ、その泥濘のなかに神がいます。だから公害の地、谷中には神がいる。神がそこで祝われている。田中は、農地の傍らに小石を見つけて、いう。小石は農民たちのように、ひとに蹴られ、車に轢かれ、砕かれる。小石は気付かれもせず、踏みつけられる。農民のひとり、ひとりと貧しさのなかでその生涯を終えていく。その小石を拾い上げて携えた信玄袋にいれた。その小石の鳴る音を聞きながらあぜ道をたどって公害による変化とそこからの脱却の方途を探って「辛酸佳境にいる。」とかたりつつ、その途上で田中は病にたおれました。いま100年経過しても森林と農地は回復していません。


                                            
雨貝行麿

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