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Logos 今月の言葉

20138月 

 最近、68年前広島で原爆に焼かれ、放射能症で亡くなった女性のカルテが見つかったという新聞記事がでました(朝日新聞8月4日)。その女性は1945年(昭和20)1月、軍需工場で働く人びとを慰問する演劇団の一員として志願し、広島で活動していた矢先に8月6日至近距離での原爆投下にあい、全身爆創で放射線をあびつつ、生きる望みを抱いて、4日後ようやく東京にもどり東京大学病院に入院しました。しかし、原爆症のために骨髄が破壊されて白血球が急速に減少し、全身の傷のために敗血症を併発して18日後に逝去しました。
 この方の生と死を忘れてはならないと、長い間、カルテを探していた方々がいて、ついに探し出したということを報じました。
 突然遭遇したわが身の出来事に対処し、生きることを求めて熾烈な行動をとった女性の姿、また医師たちは今まで経験したことのない症状に戸惑いながらその生に関して克明に記録、そのカルテをついに探し出したとのことです。
 68年前6月には沖縄戦がおわり、「本土決戦」が語られ、日夜をとわず日本の各都市が爆撃されていたころのことです。わたしは東京にいました。ラジオが「東部軍管区情報」として千葉の「木更津方面から」爆撃機B−29の編隊が侵入してくるとの情報で枕元にたたんでいた衣類に着かえて待機していました。町内会で俄か作りをした「防空壕」にはいるのです。こども心に毎晩不安をいだいていたことを記憶しています。
 そしてついに昼間、見上げる高い空に銀色にひかるB−29の爆撃機が姿をみせはじめたのです。ある日天高い青空に大きな爆撃機B-29が飛来すると2、3機の小さな飛行機が「蚊」のようにの周りを行き交ったかと思う瞬間、光がひらめいたかと思われましたがその「蚊」のような小さな飛行機が見えなくなり、ただ依然として銀色のB−29爆撃機は飛んでいます。
 するとまもなく、大きな爆音が地上にひびきわたり、不規則な爆音とともに緑色をした戦闘機が灰色の煙をふきあげ、住宅の屋根をかすめるようにしてわたしの視界の左から右へ飛び去って行きました。操縦席の風防があいていて、一瞬そこにひとりが手をあげているのが見えました。近くの専門学校につながる広場に不時着したのです。わたしはしばらく身体を震わせていました。
 夜、母が操縦していたのは青年で近くの医院に収容されたとのことを語りました。2日ほどして、その青年が亡くなったと告げました。母は「まだまだとても若い」といって涙をふき,わたしをじっとみつめました。父は、何を思ったか、わたしに「通信兵なら大丈夫だ」といいました。
 1945年の8月のはじめ、「新型爆弾」が落とされて、大きな被害がで、つづいて長崎の上空でも炸裂したということが報じられても、日本はまだまだ戦争はつづけるのだという状況にありました。
 
戦後68年がたちました。戦争をしらない世代が民衆の半数をこえ、戦闘をしかけられたら戦闘するのだということが当たり前のように語られるようになりました。日常のだんらん、余儀なく生活を捨て、瞬時の緊張を強いられ、すべてを失う戦闘をしなければならないのはいつも青年たちであることをわすれているのでしょうか。ひとりの女性の原爆症カルテの発見にどんな感想を抱くのでしょうか。
                                            
雨貝行麿

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